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TOY BOX
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2006/04/13(Thu)
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少女の音色は新たなる輝きを求めて今、また此処に眠る。
神さえ畏れるその眩い光の中に、少女の心も深い眠りに就く。 刹那に失われた輝きの前に神は跪き、頭を垂れ乞い求める。 沈黙を守り続ける青い実をもぐことを躊躇いながらも、その手は再び少女の頬に触れる。 雨のように桜吹雪が舞い、地面には敷き詰められたように花びらが散らばり、その上を足跡が辿ることを、暗に拒んでいるように見えた。 空は厚い雲が張り、しばらくすれば本当に雨が降り出すだろう。 温かい長雨が降り続き、躊躇いもなくすべての花びらを散らせてゆく。 新緑に萌え、大地は潤いを増し、生命が溢れる頃になると、心のどこか片隅で暗く沈黙し続けていた場所が、ほんの一時解き放たれることがある。 鍵も鍵穴もないそのドアは、気まぐれに無邪気に開け放たれる。 軋むすべての痛みを知らず、躊躇なく吹き渡ってゆく風の温もりに励まされ、また少女の心を撫でてゆくのだろう。 絵描きが筆を棄て、物書きが表現を棄て、楽器弾きは楽器を棄てて、失った空白を埋めるものを探している間は、どんなにか滑稽で、けれど真剣なのだろう。 腕を失うことより、耳を失うことより、瞳を失うことよりも苦渋に満ちていて、それはどんな言葉もすり抜けてゆく。 鳴り止まぬ自らの躍動を棄てることは叶わず、どこに往けるというだろう。 光を留めておくことが出来ないように、少女の中に流れる音色を閉じ込めておくことも出来なかった。 それが美しさの源でもあり、苦しみの種でもあったけれど、それはどんなに少女にとって甘味な心地だったろうか。 「本当にいいのかい?」 『えぇ。いいの』 「そんな風には見えないけど?」 『素直じゃないのよ』 「みたいだね」 おとぎ話に出てくるおもちゃ箱の鍵のような、飾りのついた鍵がカチャリと音を立てて閉まった。 それは永遠の封印にさえ感じられ、私は無性に浅く広い寂寥に包まれていた。 『はい』 と言って、私の掌に鍵を置いた。 「どうして僕に?」 『私にはもう必要ないもの』 「分からないだろう?いつかそんな日もくる」 『来ないことだって分からないでしょ?』 「いや、必ず来る。必ず」 『みんなそう言うわ。まるで音色を奏でないワタシはワタシじゃないみたいね』 「それは…。」 『アナタは正直。だから時々恐かった…』 「恐い?僕の何が恐いなんて?」 『正確にはアナタの、じゃないわ。私自身が恐かったのね』 「どういう意味?」 『ナイショ。教えてあげない』 ビロードのように光沢を放つ黒のピアノは、静かに少女と共にその音色を閉じた。 無言のままにその姿を据えた、妙なる厳かな佇まいに私は圧倒されていた。 少女の中にある根源の音色が失われたわけではなく、表面的な音色が色を失っただけで、こんなにも落ち着かなくなるとは、私自身思いもしなかった。 「でも、どうして急に…」 『急?いたって自然な成り行きよ』 「そうは思えない」 『アナタは知らないもの。急に見えただけよ』 「・・・」 私は沈黙するしかなかった。 そう、きっと少女にとってそれはとても自然なことで、私が感じるほど衝撃的なことではないのだろう。 私には少女の何が見えていて、何が見えなかったのか。そんなことさえ見分けることも出来ないでいる。 沈黙の中で溢れ出し零れ落ちそうな言葉が、今にも少女を責めるような錯覚を覚えて、私は意味もなく掌の鍵を握り締めた。 『あ、もう一度貸して?』 「これ?」 掌の中で温もりに染まった鍵を、少女はもう一度受け取ると、先ほど永遠に感じられた閉鎖をいとも容易くまたカチャリと開けてしまうのだった。 その何とも軽い開閉の音と、少女の気まぐれに、私はどこか疲労感を覚えた。 『アナタにあげるわ。これで最後かもしれないし、そうでないかもしれない。そんなとても曖昧なものだけど』 「曲を?僕に?」 『そう。アナタに。いえ、アナタだから』 「僕だから?それも何故なのか内緒なの?」 『えぇ、ナイショよ。クスクス…』 少女は悪戯な瞳をして、楽しそうに微笑んだ。 その笑顔に見た少女の強く、堅い決心のようなものがキラリと見えた気がする。 『忘れないで。音楽はワタシそのものでありながら、やはり別々のものだっていうことを』 「別々、ね。」 (私には到底そうは思えないよ)という言葉を飲み込んで、ただ曖昧に頷くだけに留まった。 少女の中に存在するフィールドは別々で、けれどその詳しいフィールドの位置を知らない私のような者にとって、それを分断することなど不可能で、そのものが少女に思えることもまた、仕方のないことだったろう。 少女はそれを知って、尚強く肯定したかったのか。私は分からずにいる。 『ねぇ、どうしてワタシはワタシの音楽を仕舞いこんでしまうのかしらね?』 「僕に分かるとでも?」 『いいえ。分かりはしないわ。だけど、アナタになら分かるような気がしただけ。ごめんなさい』 「僕に分かるのは、君の音色が美しいことと、音楽の才のない僕にでも心に響くということだけ」 『そう。だからなのね』 「何が?」 『だから恐かったのよ』 少女の言う「恐さ」が一体僕の何を指し、少女のどこを言うのか、私には見当もつかなかった。 ただ確かに何らかの思いを、少女が抱いていることだけで。 『ワタシはアナタのような人が奏でる音楽の方が、素晴らしいと思うの』 「生憎、僕は楽器は何も出来ないよ」 『そうじゃないわ。アナタの心に流れる音楽のことよ』 「表現しなくちゃ意味もないし、誰も聴けないだろう?」 『だから素敵なの。一度アナタの心にでも入って、その音色を聴いてみたいくらいだわ』 そんなことを言って楽しそうに笑った。 出来ることなら、まっさきに私が少女の心に入り込んで、飽くことなくその音色を聴いていたかったぐらいだ。 そうすれば、少女の中に兆す様々なものが見えたであろうに…。 「僕がいつか、君だけにこの不確かな音色を聴かせることが出来たら、また君の心にも音色が流れるかい?」 『アナタが、この音色を必要とするなら』 「それなら今だって」 『今はダメ。分かってるでしょ?』 「分からないよ、僕には」 『ふふふ…。いいえ、きっと分かるわ』 その後奏でられた曲は、少女の躊躇いや切なさ、そんなものが混ざっていたのか…音楽の良し悪しについて私に言えることは何もなかったが、私の胸に込み上げる言い知れぬ感情は、少女の存在が神々しくさえ思えるほど、貴く、また清らかだった。 「やっぱりそれは君が持ってるべきじゃないか?」 改めておもちゃのような鍵を見つめながら、私は苦笑するしかない。 『いいのよ。アナタが持ってて。必要になったら取りにゆくわ』 「そう。じゃぁ、僕は君がやってくるまで行かないよ」 『そんなイジワル言うのね?』 「言うさ」 複雑そうに微笑んだあの笑顔を、私は今も時々雨の日に反芻しては思い出す。 あの瞬間の煌きと輝きは、神さえも悔やむほど美しかったろう。 おもちゃ箱が開かれるのはいつのなのか…。 掌の中に鍵を包み込んで、今日も私は少女の訪れを待っている。 新緑の眩しい春に、少女の笑顔を重ねながら・・・。 |
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箱舟の幻
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2006/04/10(Mon)
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私たちの空に輝く星は別々の色を放ち、たったひとつだけの月を見上げているにも関わらず、二人の心の距離はとても遠かった。
愛は変わらず、「どこか」や「あそこ」に存在していて、確かに二人だけの間に成立するものだったけれど、それが果たして愛と呼ぶに相応しいのかは、さっぱり分からない。 「キレイな満月」 「うん。なんだか黒の画用紙に、乱雑に塗りくったようだね」 「えぇ、ホント。アナタのそういうとこ、好きよ」 「そう?それは嬉しいね」 確かにやっぱりひとつだけの月を見上げながら、暗闇を絵に表現できるその感性が美しかった。 私の中にある少ないボキャブラリーと、カテゴリーの中では「彼らしい」の一言で終わってしまうことが、少し悲しくも虚しくもあったけれど、彼もまた同じなのだと気付いていた。 「どうして僕たちの間には、こんなにも距離があって、君はこんなにも魅力的なんだろうね?」 「人は複雑だから」 「そうかな」 「そうよ。アナタも」 「うん。君もね」 夜の闇の暴くような強い光を放つ月は、冷たく静かに私たちを見下ろしていて、その心地も悪くなかった。 春の夜気の冷たさだけが、滑り込むように頬に流れて、自然と言葉が途切れてゆく。 そしてそんな小さな空白の時間に、私はとりとめもなくつきが満ちかけてゆく世の条理と、二人の間にやはり確かに存在する愛の満ち引きについて考えるのだった。 一言で「愛している」と言えた僅かな時間に、どんな形に姿を変えてしまったのか。 あまりにもそれが自然過ぎて、その変化は眼には止まらなかった。 「ねぇ、アナタ。あれを掴めない?」 「あれ?」 と、指差した月を見上げて、彼はクスクスと笑うのだった。 「”あれ”ねぇ?君らしい」 ほら、やっぱり。彼もその一言に落ち着くのだ。それが悪いのではなく、可笑しかった。 「クスクス…」 「どうしたの?」 「アナタ、またか。なんて思ったでしょ?」 「思ったさ。雨が降ったら傘もささずに出かけていって、雪が降ったら手を叩いて喜んで。月が満ちれば上を見上げてばかり、花が咲けば寄り道ばかりして、時が経つのも忘れる。」 「ふふふ…そう言わないで。好きなんだもの」 「そう。しょうがないね、君は」 「そう。しょうがないのよ」 最後の「しょうがない」は、多分色も意味も違っていて、そのことも、もちろん二人は暗黙の中で了解しながらも、クスクスクス…という、小さな微笑みの中に閉じ込めてしまったのだ。 「私、舟に乗りたいわ」 「そう、船?ノアの箱舟?」 「それも悪くないわ。だけど一人の旅がいいわ。一寸法師」 「そう…。僕は、」 「止めないでしょ?」 「あぁ、うん。止めないよ」 「そんなアナタ、時々キライだわ」と言って、コトコト笑った。 いつも聞きわけがよく、大きな冒険をせず、距離や安定を保つのが上手だった。 だから二人は上手くやってこれたのだろう。 けれど、時々そんな平坦な物語に物足りなさを感じることがあったのは、二人にとって幸福だったかもしれない。 大冒険を望んだわけじゃない。 それでも少し無茶なことをして、バカをみてみたかった。 障害を乗り越える前に、障害のない路を進んで行こうとする、とても見通しの良いヒトだったけれど、私は風のようにどんなスキマにでも飛んでゆけてしまうような、そんな自由らしい冒険をして生きていたかった。 事実、そんな風に生きていたから、同じ距離と同じ場所を見つめながら、私の瞳はまた別のところを見ていた。 「酸素も吸い過ぎると良くないんですって」 「だろうね。気体はほとんどが窒素なんだよ」 「知ってるわ。かと言って、二酸化炭素が足りなくってもヒトはやってけないのよ」 「うん。だから不思議だね、人間ってやつは」 「好んで二酸化炭素を探しに出かけちゃうんだ」 「えぇ。それが生きているってことなのよ」 「僕は酸素や窒素しか知らないのかな」 「そんなことはないわ。私のような二酸化炭素がいるじゃない?」 その時、見詰め合った瞳の奥に見える、美しく微妙な切なさを表す言葉を、私はいまだに知らずにいる。 「そんな風に君を思えたら良かったんだろうね。吸い過ぎるのが良くないって分かってても、君は酸素に違いなくって。いや、酸素だなんてワケの分からないことじゃなく、僕はやっぱり君を愛しているんだけど、君のことが良く分からないでもいるんだよ」 「分かりっこないわ。分からなくていいのよ。分かっちゃったら、もっと二人はこうして一緒に居られない気がするもの。だから、その前にノアの舟に乗るのよ」 「そう…。何がいけなかったんだろうね」 「私がアナタを傷付けて、アナタが私を傷付けなかったのがいけなかったのよ」 僕の脳裏に浮かぶ、あの最後のたった一言は、今になっても僕の心を時々ズキズキと痛みを伴って刺激する。 懸命に傷付けないようにと、どんな時も愛に溢れていようと思っていた僕の、根底の愛からすべてを彼女は覆そうとしたのだった。 慈しむだけでは手に出来ないものがあることを、君はとうから知っていて、だから君はあとになって深く傷付いたのかもしれない。 |
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矛盾の雨
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2006/04/06(Thu)
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土砂降りの雨の日だった。
窓を叩く雨の音が、鳴り止むことのない音色のようで、私は久しぶりにカップソーサーを取り出して、インスタントではない珈琲の香りを楽しんでいた。 若い頃は、休日に降る雨を厭わしく思ったものだったが、今では安らぎさえ感じられるのは不思議でもあり、生きてきた時間を思えば当然のことと思えた。 春の雨は淡い桃色の桜をけぶらせ、ほのかに色づく花々を美しく潤していた。 生命にみなぎる世界が窓の外に広がり、私は心地良い気分を味わっていた。 風が細かな花びらを散らせてゆくのか、窓に打ち付ける雨の音色は飽きることがなかった。 束の間の休日に、いつにない深い疲労感と眠りにいざなわれ、私はソファにどっかりと腰をかけると、珈琲を飲み干してからカップをサイドテーブルに置き、ゆっくりと瞳を閉じた。 すーっと後方に引かれるように心地良い眠りがやって来ると、私は逆らうこともなく夢に足を浸した。 春の穏やかな陽だまりを歩いているような夢を見た。 眩し過ぎて辺りの景色はまったく分からなかったが、自然と往き慣れた場所だと分かった。 現実に存在する場所とは思えなかったが、懐かしい気がして私はぐるりと辺りを見渡すと長い歩道を進んでゆく。 その先に何があるとか、何か目指すところがあるわけではなかったが、光の方へと歩いてゆく。 光の束の中に、誰かいるような気がして私は手を伸ばしてみたけれど、その「存在」や「影」、あるいは「気配」を掴むことは出来なかった。 それでも私は何か確かなものが知りたくて、ずっとずっと光の奥へと進もうと目を凝らしていた。 だんだん身体ごと光に飲み込まれて、私のシルエットだけが私の後をついてきていた。 ―――コンコン――― 夢の中で扉をノックする音がする。 そうか私はようやくどこかの場所に行き着いたのだ。 笑みが深まると、私は音のする方へと歩いてゆく。 ―――コンコン――― もう一度。 ―――コンコン――― と今度はゆっくりと。 (ん…?何だか聞きなれた音がする) そう夢の中の私が思った瞬間、身体を飲み込んでいた光が一気に輝きを失い、未だ窓を打ち付ける雨が降る、いつもと変わらぬ部屋の中だった。 そうか…雨の悪戯か……。 現実の雨音が、私の心のドアを叩くノックに聞こえでもしたような気がして、私はふっと恥ずかしさに俯いた。 ――コンコン―― ほんの一瞬の幻想と夢の続きを見ている私に耳に、確かなノックの音がする。 まさか真実に夢の続きとも思えるほど、私はロマンチストにはなれず、ソファから腰をあげると玄関に向かった。 覗き穴から外を覗うと、見慣れた少女が俯き加減に突っ立っていた。 心の動揺とは裏腹に、私は案外ゆっくりとドアを開くと、「どうしたの?」なんて、野暮なことを問い掛けた。 土砂降りの雨の中を、車が加速してゆく飛沫音が、二人の間に流れる沈黙を脚色していた。 少女の長い髪は首筋に張り付いて、服は重みを増しているようだった。 「傘は?」間抜けなことを問うたと思う。 「とにかく中に入りなさい」 傘もささず、この打ちつける雨の中を歩いてきた彼女の心が読めなかった。 突然の訪問は珍しくはなかったが、こうして沈黙を守り続けることで、自分の中を守ろうとしているような、こんな頑なな少女を見るのは初めてだった。 長い間降り続けている雨。さすがに傘を忘れたとは、到底思えなかった。 「さぁ。」と押した背中はひどく扇情的な眺めで、蠱惑的な瞳は私の暗い場所を貫くようで直視出来ず、ただ無性に後ろめたさを感じるばかりだった。 美しさを越え、それは触れてはならないもののように、あるいは私にとっては恐ろしいことだったのかもしれない。 無邪気に屈託なく、扉の前でゆるゆると首を横にふってイヤイヤをすることの矛盾を、彼女は知っているのだろうか。 ここに来たこと自体が、すべてであるというのに。 「どうして?」 そう問い掛けられるのを恐れていたように、上目遣いの瞳は不安そうに揺れていた。 どこか儚げでもあり、苦しげでもあるその瞳の色は、私の言葉を封じ込めてしまうほどの眼差しだった。 「ここじゃどうしようもない。ね?」 今度は素直に頷いたが、玄関先で突っ立ってしまう。 「ほら、おいで。そんなところに突っ立ってられると、僕も座れない」 そう言って苦笑すると、少女も微かに微笑んだ。 その小さな微笑みに、私は思いの他大きな安堵をしていたことを、正直に告白しておくべきだろうか。 沈黙を守る少女を部屋の片隅に残して、私は慌ててリネンボックスから大き目のタオルケットを取り出すと、部屋に舞い戻った。 部屋の片隅で、けれどその後姿はどこか清廉とした美しさをもって存在を現していて、どこか近寄り難い空気を纏っていた。 それなのに、足音に振り返った瞬間にそんな薄く張られた氷の膜は霧散して、一気に春の訪れのように空気が息吹を取り戻すのだった。 そう感ぜられただけなのかもしれない。 「雨、止まないね」 「えぇ…。明日まで降るそうよ」 そんな簡潔な会話の中に、間違いなく傘を忘れたわけではないと、肯定してしまったこともまた、少女は知っているのか、そうでないのか。私には測ることが出来なかった。 「ねぇ?私、悪い子かしら?」 「なんだってそんなことを?」 急に何を言い出すのだろう。誰かが彼女の生を咎めただろうか。意味を否定でもしたのだろうか。 私の脳裏には、誰へとでもない憎しみや、少女に対する悲壮の念が湧き上がった。 「なんだか、そんな気がするの」 「どうして?」 「急に、悪い子だったんだわって気付いちゃうのよ、時々」 「誰もそんなこと言いやしないだろう?」 「言わないわ。口のついてるものだけはね。」 「じゃぁ何かい?口のない自然の雨や風が君を責めるのかい?」 「…。時々…そんなこともあるわ。アナタだって思っているでしょ?もう少しオトナになったらどうだって?」 「それは、」 それは少し違うのだよ。 心の中に浮かんだそんな言葉と、私の頭の中に浮遊した「大人」とは、彼女の思っているようなことではないと知っていた。 しかしそれをわざわざ訂正することも、主張することも、彼女にとって何の意味もなさないことを、更に私は強く知っていた。 時々小難しいことを考え、そんな想いと上手く葛藤できない少し不器用な少女は、だからこそ私には非常に瑞々しく、若々しく魅力に溢れているように見えた。 今しがた咲いた桜が、あっという間に若葉になるように、少女の心の変化や成長も、眼に留めておくのが難しいほどに、美しく躍動に満ちたものだったろう。 そんな純粋な生き方と、どこまでも不器用な生命の営みに、少女がとてもいじらしく愛おしく思えた。 細いしなやかな手と、板のように細い身体の中に、どんな大きな力と苦しみが交差しているのか、と考えるだけで私の胸は詰まり、けれどその勇ましさに感動すら覚えた。 「こちらへおいで」 私は先にソファに楽に腰掛けると、突っ立ったまま窓の外を見つめていた少女に声をかけた。 素直にソファに腰を軽く降ろした少女の身体は、その重みがないような、そんな不思議な感覚を私はふと感じた。 「悪いなんてことがあるものか。いいんだよ、君は」 「そうかしら?このままじゃいけない気がするわ」 「なぜ?…ナゼいけないんだ?」 「どうしてかしら?私はこのまま生きていて良いのかしら?」 「そんなことを言うもんじゃない」 「違うわ。死のことではなくて。ふいと思うのよ。こんな雨の日には」 「雨が君を責めるなら、僕は雨、大嫌いだな」 「ありがと。だけど、雨は本当は優しいの。知ってるでしょ?」 「知ってるでしょ?」そう言って微笑んだあの笑顔は、美しいと言うべきなのか、あまりにも悲しいというか、儚いというべきか、私はなんとも言えない悔しい気持ちと、何に対するかも分からない憤りを抱いていた。 必死にコタエを求めて、その身を佇ませている少女の何もかも細い存在が、こんな打ちつける雨の日に、ぽきっと折れてしまうのではなかろうかと、私の心は不安にゆらめき、愛しさにたゆたうのだった。 「あぁ、知ってるよ。だけど、君を泣かせるような雨は・・・」 そう言って、雨に温もりを奪われた冷たく細い身体を引き寄せた。 抗うこともなく、ただしなやかで力強い鼓動の音色だけが、私の心を穏やかにさせた。 「私、泣いてなんかないわ」 「うん。たぶん、僕が泣いているんだよ」 そんな陳腐な一言が言い終わると、腕の中で少女は声を殺して、身体を少し震わせながら涙を零した。 かすかにしゃくりあげる身じろぎと、泣いたために温度を増してゆく身体の生々しいまでの温もり。 微かに香る甘い少女の匂い。 少し早い、規則正しい鼓動の音。 大きな瞳から次から次へと零れて、腕のなかにとけてゆく涙。 そんなすべてが愛しかった。 「いいんだよ」 髪に差し入れた手を滑らせて、まっすぐな髪を撫で梳きながら、私は自分で(何がどういいんだ)と自問しながらも、柔らかな少女の髪と身体を抱き締めながら、ほんの僅か腕に力をこめた。 「ごめんなさい…」 ぽつりとたった一度、小さくそんな言葉を呟いた少女は、自分の腕を私の背に回して、静かにまた美しい涙を零した。 服に丸いシミができてゆく度に、私はまた「いいんだよ」と何の力にもならない言葉を口にしながら、けれど懸命に、彼女を抱き留めていた。 「いいんだよ。明日は晴れるんだから。忘れておしまいよ?そんなことは」 微かに頷くと、ぎゅーっと少女は私を抱き返した。 私にとって微かな腕の戒めは、少女にとってどのくらいの力だったか。 そんなことさえ愛しかった。 雨はまだ窓を叩き、私たちの沈黙を色褪せさせることもなく、鮮やかに照らし出している。 |
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