逃避行
2008/04/30(Wed)
人びとの喧騒が、より一層疎ましく感じられた。
眉間に皺を寄せながら人々の横をすり抜けた鉄道のホームは、埃っぽくてはやりどうやっても身体に合いそうもない。
似たような服を着て、似たような髪形をして、みんな何か目的がありそうな顔をしながら、結局ゆく場所などない。
気忙しく歩くそれぞれの疲れや、それぞれの寂しさを感じながら、嫌いな電車に揺られていた。
不快な騒音と喧騒が入り乱れた、人々の生活に溢れた空気は非常に薄くて、汚く澱んでいる。



狭苦しく圧迫感のある、電車よりも澱んだ場所に辿り着くと、私はただただ脱力しただけで何も考えなかった。
知っていて知らない人々の生活がそこら中に散らばった部屋の中に、まるで異質なものである私がぽっつりと佇んでいる。
間抜けなほど、きっと来るべき場所ではなかったんだろう。
そう思いながらも、私は埃にまみれたカーテンを開けた。
そこにはいつの日か見た、つまらない景色が広がっていて、外の景色に何の興味も抱けない私は、無気力にベッドに腰掛けた。
煩雑や、乱雑さを超えたような酷い部屋の中に、なくてもいい現実や、なくてもいい人々の生活の痕跡だけが転がっていて、その全てと、そこにいる自分が厭わしかった。
苦し紛れの選択は、余計に虚しく、物侘びしいだけだった。

沈滞したままの空気を入れ替える気分にもなれないほど疲れていて、何度も何度も重たい空気を吸い込みながら、泣くほどの元気もなく、ただ白い天井を眺めていた。
それ以外にすることもなかったし、出来ることもなかった。

二人が笑い合い、小さくとも大きなドラマが広がった日々に見た部屋は、どす黒くくすんで見え、まるでその思い出さえも汚れていってしまうような錯覚さえ覚える。
この部屋で得られるものと言えば、孤独や寂しさ、侘しさに苛立ち。
そんな厭わしいものばかりで、苛立ちがいくつもの悲しみになった形跡だけが横たわり、往き場所もなくわだかまっている。


電気を消してカーテンを閉め、埃っぽい毛布に包まって、浅い呼吸を何度も繰り返す。
部屋を灯す明かりは、白日の下に真実を照らす光のように私の心を刺すだけで、何も慰めない。
見る必要のないものばかりがポカンと浮かんで、それは宙に舞うばかりで消えることはなかった。
脳は覚醒していて瞳は爛々といているのに、私は眠らなければならない。
瞳を閉じて、朝になるのを待ち、それから?

涙も出ない。

哀しみも渇き、脆弱な精神だけが疲労して、何かを考えることをやめることが出来ない代わりに、感情は刹那寸断されているような感じだった。
それは逃避行という名の地獄絵図のようで、その絵にさえもなじめずに弾かれようとしている私は、一晩必死にしがみついていた。


心底死を願っていたとしても、本当に死んでしまわなければただ単なる短慮でしかない私のこの肉体は、まるで昨日を怖れるように早鐘を打ち、懸命に生きようとしている。


無駄な努力ばかりを続けている。
そう思うと、自然と涙が零れた…。




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キャプテンモルガンの迷走
2008/04/23(Wed)
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僕がまだ、遠き未来に夢を馳せ、懸命に明日への希望を生み出していた頃。
僕は学校の図書館で借りた偉人伝を良く読み、ちょうどその頃は「野口英世」だった。


「よぅ」
叔父は時々そうやって家にやってくる、非常に自由な人だった。
日本をあまり好まず、海外を点々を渡り歩く、家ではちょっと問題な人だと、親がひそひそと話しているのを聞いていた。
しかし僕にとっては、良いスポンサーのようなものだった。
世界中の菓子や、民芸品をプレゼントしてくれるし、その頃の両親たちよりは「話せる」人間だったように思う。

「何だ、野口か」
「うん。この人すごいんだ!」
「ロックフェラーの幻ねぇ」


その時の僕には、叔父が言ったロックフェラーの意味も、幻の意味も分からなかった。
後になって、叔父が医学部の出身だったことや、野口が研究に投じた場所がロックフェラー大学ということを知り、僕の中で叔父は不思議な存在になっていった。
そんな経歴と、破天荒な生き方が、父や母には自由すぎて目についたのかもしれない。
幼い僕にとっては、一種の憧れのように感じられた。




「よぅ。待たせたな」
そう言って軽く手を上げた彼は、またいつもと同じように1時間の遅刻を埋めるのだった。
「なぁに。ちょっと手綱を締め忘れてな」
なんだ、また女のことか。と嘆息したのも束の間。
「いいから入ろう」
まるで僕が待たせたような気分で、僕は叔父の後をついていった。

店内の照明は小さく落とされ、聞きなれたジャズのナンバーがかかっていた。
カウンターだけの小ざっぱりとしたバーで、僕らの他に叔父と同じくらいの歳の男が端に座っていた。

「何がいい?」
「僕はビール」
「ビールか。お前と酒が飲めるようになるとはね。俺も歳をくった」
「叔父さんは変わらないね、なんだか以前より若くなった」
「女のケツを追いかけるのだけは、お前がこんなだった時と変わらないよ」
と、カウンターの下に、手で僕の小さい頃を回想しながら笑った。
「お前は相変わらず、真面目くさった顔して。まだ参考書でも読んでるのか」
「まぁ、そんなところ」
馬鹿だな。とも、変わらないな。とも取れる微笑をした叔父は煙草に火をつけた。

「そんなに”ケツ”を追いかけるのが楽しいの?」
目の前に置かれた二つのビールが気泡を弾かせている。
僕はあえて叔父のような口調で問い掛ける。
叔父はさも楽しそうに一笑すると、ビールをぐっと喉の奥に押し込んだ。
それからふっと視線を前のボトルラックに向けると、グラスをコトンと置いた。

「モイラって女、知ってるか?」
「モイラ?」
記憶を手繰り寄せたが、モイラらしい女性は記憶の中に見つからない。
「お前の読書好きも大したことがない。もっと別の本を読め」
叔父のそんな言葉に少しムッとしながら、僕は次の言葉を待った。
「モイラって女は、男を何人も手玉にして、コロコロ転がして、すぐにベッドインしては、ポイッと捨てる。浮気は当たり前。裏切りや残酷がいつも彼女を取り巻いて、けれど彼女の傍らから男が切れることはない。魅力というのは、そういうもんさ」

僕はすぐに返す言葉が見つからず、ただ残りのビールを呷って考えた。
そんな酷い女なら、こっちから捨てて、もっとしおらしい女に手を出せばいい。
そんな風に言うのは簡単だったけれど、叔父の真意はまた違うところにあるらしい。

「どんなに世間一般がイイ女という奴にも、モイラの一面が存在する。
そう。お前が言いたげなシオラシイ女の内にもな」



「キャプテンモルガン。お前は?」
「ぼ、僕もそれ」
へぇ。と笑うと空になったビールグラスをバーテンダーの方へ押した。
聞いたことのない酒へのちょっとした不安と同じように、僕の中にある「イイ女」というモイラ像が変形してゆくこともまた、その時の僕には非常に不安なことだった。

「同じモイラなら、何故叔父さんは世間のモイラじゃなく、酷いモイラなわけ?」
「さあね。ビールと、このキャプテンモルガンの違いみたいなもんかな」
美しい琥珀色をした液体が、叔父の手元でゆらゆらと揺れている。
何とも懐かしそうな瞳をした叔父は、嬉しそうにグラスを傾けると、慈しむように喉の奥へ一口流し入れた。

「旨い。飲んでみろよ」
初めて飲んだキャプテンモルガンは、僕にはきつ過ぎた。
何とも言えないフレーバーと、鼻につくような甘苦い香り。
スパイスの中に酒が入ったような、どうやっても叔父のようにウマイとは言えなかった。

「ビールはパチパチという気泡の刺激が一気に押し寄せ、喉を潤してゆく。モルガンは、後から後から何かが押し寄せるように酔いが回る。モイラも同じ。どっちのモイラがいいとかはない」
「そうなんだろうか」

こんな僕を鼻で小さく笑うと、そうだ。と言ってこんな話をした。
「お前、昔良く野口を読んでいたよな。ま、これは野口の話じゃないが、医学的に非常に功績のある人物なんだ。これは医学史上を大きく変える発見だった。
そんな大発見をしたのは、ただのサーファーだっていうんだ。
彼女とデート中に閃いた発見で、その男は女をコロコロ変えて、ドラッグの常習犯で、逮捕歴も何度かある。そんな男さ。ま、何が言いたいのか、自分でも良くは分からないが、」
と一呼吸置いて、モルガンをまた旨そうに飲むと、
「偉人と呼ばれる人間だって、所詮男女関係なくモイラの精神がどこかにあって、それは知識や名声とは別のところにあるってことさ」
「誰の中にも…」
「そう。俺にもお前にも」


叔父はそう言うと、残りのモルガンを飲み干し、もう一杯モルガンを頼んだ。
僕はグラスに残ったフレーバーのきついモルガンを、半ば持て余しながら、ちびちびすするようにして考えていた。
幼き頃に夢馳せた偉人たちは、歴史的な名声の他に、非常に人間らしい一面を残していたりする。
叔父が言った誰かのように、例外なく野口自身も、その発見という功績よりも、ロックフェラーではプレイボーイとしての功績の方が有名であった。
人間は、叔父の言ったモイラの一面を持ちながら、それをひた隠しにしたり、おおっぴらにしたりしながらそれぞれに生きているんだろう。
僕は次第にモルガンの酔いが回るのを自覚しながら、ゆらゆらと現実と夢幻の間を流れていた。
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仕舞いきれない
2008/04/09(Wed)
言葉をどんなに羅列しても、真実はとても遠い。
伝えなければならないことや、思いがあって、その真意と現実にはいつも隔たりがある。

幸福や孤独。愛しさや疎ましさ。そんなものを一緒くたに曖昧な場所に納めておくことが出来るのも、
非常に限界がある。


本当(真実)にそれは難しいことなんだろうか?


生への喪失と、愛への不信が度重なって、空気を失って反響しない心の中には、いつも溜め込んで捨てられた言葉だけが、窮屈そうに鬱積している。
他人(ひと)にとって短慮なことだとしても、私自身の想いとしては正しい方向性へと向いている。


何が伝わったろう?
何が変化したろう?
何をしなければならないんだろう。
何かをしなくてはいけないというのに、互いに見つからない?



「愛や血縁によって縛られない生き方がある」  
と言った貴男の言葉だけが、とても寂しそうに、けれど正確な場所に留まっていて、今の私にはとても目障りな所で沈黙を続けている。

そんな生き方が出来ればいいと思って生きてきた。
家族とか、愛を忘れて、ただ自分のためだとエゴだけを繰り返して、人を傷付けてでも、好きな生き方を選んでいたいと思ったこともあったけれど、結局は中途半端なところで難しくて、逆にそれぞれを傷付けながら、同じように自分も傷付いていた。


不器用でもいい、愛のある生き方を。なんてことも思ったけれど、決して善人にはなりきれない残酷な自分と葛藤し続けているうちに、ずいぶん疲れてしまった。
正直な生き方をすればするほどに、醜悪な自分自身を残酷だと思ったり、また残酷の意味を問い哀しみを知った。


もしも今、そんな残酷や愛や血縁の束縛を捨てて、まるで宙に浮いた異質な存在になれるのだとして、そうしたら私の生はそこで止まって、周りにいるすべての人びとの時間だけは滞りなく進んでゆくのだとしたら、私は家中の荷物を片付け捨てて、消しきらない私を曖昧に残したまま、此処を去ってゆくんだろう。


寂しさを思って言葉をこうして紡ぐこともなければ、愛に苦しむこともない。
同時に幸福であることを否定する哀しみを、誰かに背負わせて取り残してゆくんだろう…。
それでもいい。と思えるくらいなら良かったのかもしれない。


引き出しの中に、溢れんばかりに詰め込まれた感情の一つ一つが飛び出したがっていて、それを無理矢理押し込んでおく力とか気力とか、あるいは覚悟とか、。そういったものを失いかけていて、私はただ泣きたがっていて、真実が辛辣であればあるほどに迷い続けていて、それは誰にも届かなくて。
伝えても届かなくて、届かなくて…。
諦めや脱力の底の方に、忘れたように丸まった愛が、とても悲しそうに俯いている。

ごめんね。

って言ったのは、貴方でもなく、私自身で…。


そんな言いようのない想いを抱えた時間が過ぎれば過ぎるほど、言葉がまさに無駄になってゆくように、私は健康と不健康という、非常に曖昧で忘却しがたい場所を行ったり来たりしながら、嘔吐と一緒に抱えきれない言葉を捨てて、空気を懸命に飲み込みながら、身体中から零れそうな悲しみを懸命に閉じ込める。



私は、其処にいる誰かに問い掛けているはずなのに、まるで透明人間のように誰もいない。
私はただ、残酷な正直を持て余しているに過ぎない。
けれど、聴くヒトを持たない。

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私の本。
2008/04/04(Fri)


雑然とした部屋の中で、打ち捨てられた本。
読む人を失った悲しみさえも、埃を被ってくすんでいる。
哀しく途中に差し込まれた栞が、いつまでたっても進めずに泣いている。

主を失くした家の中に、また主を失くした物たちが溢れて、往き場所を探している。
必要だけれども、居場所のない物たちは、ただ袋の中に押し込まれてバイバイする。
それが永遠の別れだとか、全ての終わりだとか気付かずに。


ぽっつりと置かれたままの本を、切なげに取り上げてみる。
夢と幻想がつまった物語の中で、主人公たちがいまだに演じ続けている。
表紙がこすれて、穴が開いている。
寂しく隙間風が吹くこの世界にただひとつだけの、私の本。



帰ろう。
一緒に。
もう此処には居場所がないよ。
そう。
同じだね、私と。



懸命になる必要はないから、栞は捨ててあげよう。
いつもまっさら、1頁から…。
演じ続けることはないんだ、まだ幕は上がっていないから。
再び幕があがって、ゆっくりとのんびりと演じられる日が来るまで、お休み。



ぎこちない言葉の羅列だけが、今を哀しくさせている。
それはどんな美しい言葉も虚しくて、ひ弱で、敵わない。
埋めるものは時間以外になくて、それはとても遠い。

帰る場所がないと、もう喘いではいけないんだろう。
誰かを悲しくさせたり、誰かを傷付けるだけで。
無力な想いだけが、ちゃんと飛べずに落ちてゆく。
往く場所もなく佇んでいる言葉や、否定できない悲しみが蹲って沈黙している。



春の日差しの中、うららかな風とは裏腹に、秋の物悲しさのような想いを抱き、それもまた暖かな日差しに温められ消えてゆくのだろう…。


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