高く気取ったスツールの上で、女はふぅーと溜め息をついた。
目の前に置かれたワイングラスの脚に手を添えたまま、一向にグラスを傾けようとしない。
「いけないなぁ。君に疲れは似合わないよ」
整えられた指先が、ワイングラスを持ち上げて喉を鳴らす。
男は旨そうにワインを傾けながら、女の指先を見つめていた。
「まさか酔ったわけじゃないだろ?」
バーに流れ込む前に多少のアルコールが入っていたにしろ、男が知っている「彼女」が酔うほどの量ではなかった。
『えぇ。酔っちゃいないわ』
「どうかしたの?」
『別に。なんでもないわ』
訝しげに思いながら、男は慎重に返答の言葉を探していた。
聞き逃してしまいそうな、何か大切な言葉が闇の中で聞こえるかのように耳を澄まして、女の様子を見つめている。
「キール、美味い?相変わらずソレだけど」
『えぇ。貴方も飲む?』
「いや。俺はいい」
『貴方も同じね、ギムレット』
女はしばらく、フランスはマルセイユに建築物の研究のために渡っていたことがあった。
有名なマルセイユの宮殿でも研究に行ったんだろう。と思っていた男の予想は裏切られ、女はもっと別の建築材料を求めていたようだった。
同じ頃、マルセイユで絵の研究をしていた男と知り合ったのは、たまたまこうして場末の酒場で飲んでいるところを、男から声をかけたのだった。
「君はあの時もソレを飲んでたね?」
『あの時?』
女には男の回想していた時間は分からない。
「あの時」でも「その時」でも、女にとってはみな同じで、多少の興味をそそられたとしても、キール一口分で消えてゆくような興味だった。
「ほら、初めてマルセイユの酒場で出会った時さ」
『あの頃はブルゴーニュのワインにハマっていたから。それで』
「君だったら、ノーマルなキールじゃなく、お洒落にシャンパンを使ったキール・ロワイヤルの方がお似合いだろうに」
『お世辞はけっこうよ』
”お世辞じゃないんだけど…”
男の苦笑は、空悲しく酒場の重厚な空気に呑まれていった。
出会った頃に垣間見た横顔に映る影は、今も彼女を妖しげな美しさで纏っていた。
「少し痩せたんじゃないか?いけないなぁ」
『さぁ。そうかしら。知らない』
「知らないって。もう少し自分を大事にした方がいいよ」
『余計なお世話よ』
女はぐっとキールを呷って、グラスの半分を空けた。
それが言葉にならない女の奥底の感情のようで、男には何も言えなかった。
『貴方もつまらない女の心配なんてしてないで、もっと別のことをしたらどう?』「別のこと?」
『さぁ、何があるのか知らないけれど。貴方もそこまで暇じゃないでしょ?』
「君はそういう言い方しか出来ないのか…」
『知ってるでしょ。仲良くお手て繋いで、馴れ合う気はないもの』
「淋しいひとだね」
『それは貴方が勝手に思うことよ』
「そうさ。悲しいね」
男の心では、一筋の涙が零れていた。
出会った頃もそうだった。
決して孤独が好きなわけでもないはずなのに、他人とどこか距離を置きたがる。
それでも、こちらの誘いを断ったことは一度もなかった。
飲み相手以外に進展することもないし、彼女の内面に触れることもなかった。
いや、出来なかっただけかもしれない。
「……。しばらく、またフランスに行くんだ」
『そう。やっぱり暇じゃないでしょ?いつから?』
「来週末。」
『仕事で?』
「いや、プライベート。旅行みたいなものだね」
『そう。貴方も少し疲れているのよ、ゆっくりしてらっしゃいよ』
「…。あぁ」
その時、男はどんな言葉を飲み込んだのだろう。
定例句のような言葉に、女のどんな想いが垣間見れたのだろうか。
何もなかったかもしれないし、何かが映りこんでいたかもしれない。
「なぁ、今日は最後に、ロワイヤルを飲んでかないか?」
『キールの?どうして?』
「ほら、シャンパンでメデタイ時に飲むだろう?俺のフライトを祝してさ。な?」
『そうね。無事に着くように祈っててあげるわ』
「お願いするよ。じゃ、キール・ロワイヤルで」
男はギャルソンを軽く手で招くと、キール・ロワイヤルを頼んだ。
恭しくギャルソンが一礼をすると、足早にカウンターへと戻って行った。
「そういや君、ロワイヤルを飲んだことは?」
『ないわ。名前だけ』
「そう。それは良かった。じゃぁ、初めてのロワイヤル」
『そうね』
運ばれてきたキールは、ノーマルのキールとは違って、シャンパンの気泡が揺らめいていた。
それだけでどこか心が躍るような気がした。
カシスの赤に彩られた高級なシャンパンが、スマートなグラスに注がれて、カクテル自身が気取っている風に見えた。
「じゃぁ、乾杯」
『気をつけて』
「ありがとう」
チーンと涼やかな音を立てて重なったグラス。
そして女の微笑。
あれほど儚く、また美しい笑顔を見たことがなかった。
男の言い知れぬ焦燥は、一体どこから沸きあがってくるのか。
一瞬の躊躇いに、フライトを止めてしまおうか。そんな思いまでよぎった。
女を繋ぎとめる言葉も、愛も、まだ二人の間には流れていなかった。
男が旅行だと言った微かな偽りの中に、女への思慕はあまりにも儚過ぎた。
また女も、そんな男の微妙な言葉に気付きながらも、ソレとは知らないふりをした時には、二人の未来は決まっていたのかもしれない。
『そろそろキールも飽きちゃったわね』
気泡の立ち上るグラスを、最後まで傾けた後に女が呟いた。
それがまるで、男には”さよなら”よりも切ない別れの言葉に聴こえた。
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「キール」
フランス、ブルゴーニュ地方の中心都市、ディジョン市はブルゴーニュワインの集散地になっています。
キャノン・フェリクス・キール氏が、ディジョン市の市長になった時に市の振興のために、地元で収穫される白のワインとカシスリキュールでミックスドリンクを作りました。
その飲み物に自分の名前をつけたのが、キール誕生の初めです。
それからはレセプションなど華やかな場所で飲まれることが多くなり、世界中に広まっていきました。
同じようにカシスリキュールを使い、シャンパンで割ったのが「キール・ロワイヤル」作中でも出てきますね☆彡
これはオーストリアのウィーンのインターナショナルという店の、フーベルト・ドヴォルシャック氏がワインの代わりにシャンパンを使用して作りました。
そして「キールの王様」という意味の名を付けて、またこのカクテルも世界的に大流行していきます。
なかなか挑発的なカクテルだなぁ〜と思ったのは私だけかしら?(笑)
やっぱりシャンパンを使うと違いますね。ちょっぴり上品な感じになります♪(笑)