とある日に想う
2006/12/18(Mon)
暮れなずんでゆく陽の光に投影する自らの姿は、非常に淋しげで苦しげでもあった。
何がそうさせるとか、明らかな理由があるわけではなく、漠然と茫洋としている。
悲しみの根源はひどく遠い日の、深い場所にあり、ぶ厚い曇りガラスの向こうのようにおぼろげに見えているというのに、”ソレ”を掴むことは難しかった。

果てしなく思われる私の海に沈むモノは、不鮮明な輝きを放ち、決して激しさを見せることはない。
知らずのうちに曇ってゆく心に、愛は語りかけ、けれどその言葉でさえ遠く思われた。
瞬間瞬間に無意味に思われる私の肉体(からだ)は、どこに向かって生を営んでいるのだろうか。
美しい青空。星空。知らなかった早朝の景色。夜の深さ。
すべてがまるで作り物のように、私は球状の箱の中でただ空気を吸い続けながら、何かによって動かされているような気がした。
非生産的な、と言えば少し毒が過ぎるけれど、わずかにこの生は「そのように」思われることがあるのも確かだった。
私は真実(ほんとう)に、この球状の”世界”と呼ばれる理由なき場所に必要なのであろうか。
そしてそれを誰に問うべきなのか。
また何が判じられるというのだろう。
反語のように、言葉はすぐ”判じられるわけがない”と否定をした。
幸福の只中にありながら、決して晴れることのない曇りガラスを懸命に磨き続けているような、そんな途方もない想いを抱き続けている。
それこそが無意味なのかもしれない。

すべてが不思議の中に在るようだった。
見るものすべてが新しい故に、孤独でない場所にいながら、何故かひどく孤独に苛まれた。
いや、確かに孤独ではないからこそ、尚そうなのかもしれない。
矛盾は時に正しくもある、と。
この孤独は空洞にいくら実体のない空気を送り込んでも無駄のように、果てしなくけれど深みのない浅く平べったい孤独だった。
瞬間的に、愛によって激しく熱されることもあれば、温度を保つこともある。単純なのだろう、本当は。きっと…。
単純だからこそ失われてゆくのもまた、簡単なのであろうか。
良く、分からない。
ふとした瞬間に見失ってゆく存在意義や価値は、移りゆく季節のように取り留めはなかったけれど、無秩序だったわけではなかった。

 どこかが苦しいのだと、一言で終わってしまえることであるだろうに、何故に私は鎖しているのか。
そうすることで守れるものがあるからか。あるいは、それがただ単なる我ままや身勝手な考えだとも感じているからだろうか。
一人だけが苦しいわけではないとも知っているし、またひとりだとも感じてはいなかった。
けれど無性に私は孤独で、幸福だった。
一人寝の夜よりも淋しく苦しい夜が、幸福や愛という名の圧力をもって私を朝まで押し潰そうする。一度その流れに乗ると、とめどなく涙が零れ、不思議と生の実感さえ失われてゆくのだった。
しかしそれも心地よいいざないに感ぜられて、私の浅く平べったい孤独は、果てを知らぬ子供の好奇心のように広がってゆく。
それが現在(いま)なのだと。
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