
僕がまだ、遠き未来に夢を馳せ、懸命に明日への希望を生み出していた頃。
僕は学校の図書館で借りた偉人伝を良く読み、ちょうどその頃は「野口英世」だった。
「よぅ」
叔父は時々そうやって家にやってくる、非常に自由な人だった。
日本をあまり好まず、海外を点々を渡り歩く、家ではちょっと問題な人だと、親がひそひそと話しているのを聞いていた。
しかし僕にとっては、良いスポンサーのようなものだった。
世界中の菓子や、民芸品をプレゼントしてくれるし、その頃の両親たちよりは「話せる」人間だったように思う。
「何だ、野口か」
「うん。この人すごいんだ!」
「ロックフェラーの幻ねぇ」
その時の僕には、叔父が言ったロックフェラーの意味も、幻の意味も分からなかった。
後になって、叔父が医学部の出身だったことや、野口が研究に投じた場所がロックフェラー大学ということを知り、僕の中で叔父は不思議な存在になっていった。
そんな経歴と、破天荒な生き方が、父や母には自由すぎて目についたのかもしれない。
幼い僕にとっては、一種の憧れのように感じられた。
「よぅ。待たせたな」
そう言って軽く手を上げた彼は、またいつもと同じように1時間の遅刻を埋めるのだった。
「なぁに。ちょっと手綱を締め忘れてな」
なんだ、また女のことか。と嘆息したのも束の間。
「いいから入ろう」
まるで僕が待たせたような気分で、僕は叔父の後をついていった。
店内の照明は小さく落とされ、聞きなれたジャズのナンバーがかかっていた。
カウンターだけの小ざっぱりとしたバーで、僕らの他に叔父と同じくらいの歳の男が端に座っていた。
「何がいい?」
「僕はビール」
「ビールか。お前と酒が飲めるようになるとはね。俺も歳をくった」
「叔父さんは変わらないね、なんだか以前より若くなった」
「女のケツを追いかけるのだけは、お前がこんなだった時と変わらないよ」
と、カウンターの下に、手で僕の小さい頃を回想しながら笑った。
「お前は相変わらず、真面目くさった顔して。まだ参考書でも読んでるのか」
「まぁ、そんなところ」
馬鹿だな。とも、変わらないな。とも取れる微笑をした叔父は煙草に火をつけた。
「そんなに”ケツ”を追いかけるのが楽しいの?」
目の前に置かれた二つのビールが気泡を弾かせている。
僕はあえて叔父のような口調で問い掛ける。
叔父はさも楽しそうに一笑すると、ビールをぐっと喉の奥に押し込んだ。
それからふっと視線を前のボトルラックに向けると、グラスをコトンと置いた。
「モイラって女、知ってるか?」
「モイラ?」
記憶を手繰り寄せたが、モイラらしい女性は記憶の中に見つからない。
「お前の読書好きも大したことがない。もっと別の本を読め」
叔父のそんな言葉に少しムッとしながら、僕は次の言葉を待った。
「モイラって女は、男を何人も手玉にして、コロコロ転がして、すぐにベッドインしては、ポイッと捨てる。浮気は当たり前。裏切りや残酷がいつも彼女を取り巻いて、けれど彼女の傍らから男が切れることはない。魅力というのは、そういうもんさ」
僕はすぐに返す言葉が見つからず、ただ残りのビールを呷って考えた。
そんな酷い女なら、こっちから捨てて、もっとしおらしい女に手を出せばいい。
そんな風に言うのは簡単だったけれど、叔父の真意はまた違うところにあるらしい。
「どんなに世間一般がイイ女という奴にも、モイラの一面が存在する。
そう。お前が言いたげなシオラシイ女の内にもな」
「キャプテンモルガン。お前は?」
「ぼ、僕もそれ」
へぇ。と笑うと空になったビールグラスをバーテンダーの方へ押した。
聞いたことのない酒へのちょっとした不安と同じように、僕の中にある「イイ女」というモイラ像が変形してゆくこともまた、その時の僕には非常に不安なことだった。
「同じモイラなら、何故叔父さんは世間のモイラじゃなく、酷いモイラなわけ?」
「さあね。ビールと、このキャプテンモルガンの違いみたいなもんかな」
美しい琥珀色をした液体が、叔父の手元でゆらゆらと揺れている。
何とも懐かしそうな瞳をした叔父は、嬉しそうにグラスを傾けると、慈しむように喉の奥へ一口流し入れた。
「旨い。飲んでみろよ」
初めて飲んだキャプテンモルガンは、僕にはきつ過ぎた。
何とも言えないフレーバーと、鼻につくような甘苦い香り。
スパイスの中に酒が入ったような、どうやっても叔父のようにウマイとは言えなかった。
「ビールはパチパチという気泡の刺激が一気に押し寄せ、喉を潤してゆく。モルガンは、後から後から何かが押し寄せるように酔いが回る。モイラも同じ。どっちのモイラがいいとかはない」
「そうなんだろうか」
こんな僕を鼻で小さく笑うと、そうだ。と言ってこんな話をした。
「お前、昔良く野口を読んでいたよな。ま、これは野口の話じゃないが、医学的に非常に功績のある人物なんだ。これは医学史上を大きく変える発見だった。
そんな大発見をしたのは、ただのサーファーだっていうんだ。
彼女とデート中に閃いた発見で、その男は女をコロコロ変えて、ドラッグの常習犯で、逮捕歴も何度かある。そんな男さ。ま、何が言いたいのか、自分でも良くは分からないが、」
と一呼吸置いて、モルガンをまた旨そうに飲むと、
「偉人と呼ばれる人間だって、所詮男女関係なくモイラの精神がどこかにあって、それは知識や名声とは別のところにあるってことさ」
「誰の中にも…」
「そう。俺にもお前にも」
叔父はそう言うと、残りのモルガンを飲み干し、もう一杯モルガンを頼んだ。
僕はグラスに残ったフレーバーのきついモルガンを、半ば持て余しながら、ちびちびすするようにして考えていた。
幼き頃に夢馳せた偉人たちは、歴史的な名声の他に、非常に人間らしい一面を残していたりする。
叔父が言った誰かのように、例外なく野口自身も、その発見という功績よりも、ロックフェラーではプレイボーイとしての功績の方が有名であった。
人間は、叔父の言ったモイラの一面を持ちながら、それをひた隠しにしたり、おおっぴらにしたりしながらそれぞれに生きているんだろう。
僕は次第にモルガンの酔いが回るのを自覚しながら、ゆらゆらと現実と夢幻の間を流れていた。