5%の海
2008/06/01(Sun)
書きかけた詩の一片。
失われていった文末の行方は定かじゃない。


――二人の限界は
   言葉の不在で

   言葉の不在は
   まるで愛の不在のように
   虚しいものでしかなく


   笑顔が消えてゆく――



言葉を交わすことを怖れた二人にとって、臨界点は愛の不在ではなく言葉の不在であって、それがどんなに恐ろしいことなのか。
まだ私にも判らない。

一方通行にもなれない言葉が、喉元で圧縮され抑圧されて、沈黙になって消えてゆく。
まるでエンドレスだね。って話した渇いた笑みが、今じゃもう、まるで笑えない。
滞った会話だけが、日常をすり抜けて、私をすり抜けて、愛を鈍らせて。
陳腐な幸福論に鼻で笑った現実に、嘲笑われる陳腐な存在のように、私は丸められた紙屑のようで…。

オートポイエーシスは、いつだって私を「生」と結論づける。
そんな、ただ悲しいだけの事実を知って、私は死んでいるのと同じだというのに、単純なはずの複雑論は、まだ私を生かそうとしている。


痛ましい話をしたね。
世の中にあるウィルスって呼ばれるものは、生物を「自己複製するシステムを持つもの」と位置づけた時、まったく律動しない「無生物」なんだって。
自分では決して律動することはなく、何かに寄生してその自己を複製するしかないんだそうだ。
そんな知らない話に感嘆したのも束の間で、ある瞬間から、いつか自分もウィルスのような存在になってゆくような気がしていた。
誰かの寄生物になって、そうやって生きてゆくことが当たり前になってゆく。
それは必要とか、レーゾンデートルじゃなくて、それはただ律動していないのと同じなんだと。
生きながら死んでいる生物でもない、無生物の異質な物体は、こんな狭い世の中でどうやって過ごしてゆけるんだろう。
宙に浮いた私という存在の、不確かで曖昧な有りようは、死んでいるということの定義なのかもしれない。


5%という無秩序な可能性は、美しい幸福論を乱す、悪意的なものなのか、それは分からないけれど。
ただ、心から安らげる場所を喪失した私が、今還るべき場所は曖昧でない5%の海に還ることなんだと理解してきたのだ。
地平線の亡羊とした海原の景色が、はっきりと輪郭をなしてゆくように、曖昧だった5%が、確実な5%に近付きつつあって、それが私が無生物としてではなく、生物として生きた意味なんだと思う。




†††††††


何度か休憩しながらも、書きたいこと書いてきたけれど。
なんだかもう書くこともお終いにしようかと思う。
自分の中の表現しようと思う気持ちがなくなったわけではないけれど、何となく、このままなくなってゆけばいいのに。
そんな風に思う自分がいて、それは今だからなのだと思うし、けれど今だから還るべき場所に還るんだとも思う。
私を形成する異物感としばらく付き合ってきたけれど、それは拡大して膨張している気がする。
青春と呼ばれる大半の時間を、自分の存在の意味や理由に費やしてきた若い躍動の中で、広がっていった自身への不信と、繰り返した短慮は、確かに生きていることだとも思えていたけれど、
今となってみればそんなことも、なんだか悲しくなってきてしまった。
ただそこいるだけで良かったはずの居場所は、本当にまるで寄生先のように誰かの生や幸福を蝕んでいくように思えて、わずかにピンで留めてあった糸が、切れて浮遊しているような感じがする。
そうして、風もなくなれば浮遊も出来なくなって、落下して塵となって終えてゆくんだろう。

それを、悲しんではいけないのだとしたら、私はやはり律動を止めてゆくほかにないのだと思う。



遊びにきてくれて、本当にどうもありがとう。
しばらく置いておくけれど、今月中には閉鎖します。

さようなら。




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